ニュートラルになりたいな

三人子育て中。今後の人生を模索中。

ふみきりくん

 

ふみきりくん (幼児絵本シリーズ)

ふみきりくん (幼児絵本シリーズ)

 

表紙を見て思わず手に取り、ちょっとペラっとめくって気づいた頃にはしっかり抱えていました。

ジャケ買いみたいなものでした。

踏切推しの息子にぴったりではないか…?! 

 

案の定、でした。

もうすぐ3歳の息子にメガヒット。

 

ちょうどいい文の量で、しかも

息子が大好きな、写実的な絵。

デフォルメ、キャラクター化した電車よりも

写真に近いような電車の絵が好きなようです。

そして、この絵本の良いところは様々ですが

なかでも、音の表現がいいなぁと思います。

 

電車好きな子って、その形もだけど、特に音を愛しがちな気がするのです…個性によるのかもしれませんが…

車内アナウンスが大、大、大好き。

ちょっとだけ間違えているのが親としては萌えポイントです。

一緒に言うと怒られます。

 

それと、電車が動き始めるとき、鉄橋を走る時、止まる時の音。

なんとか擬音語を使って、聞いた通りの音を表現しようとします。

この絵本の擬音語は、なるほどなぁ〜って思いました。はじめて見た表現でした。

 

また、ふみきりくんの活躍に合わせ

遮断機が上がったり降りたり、ストーリーに合わせて腕を動かすのがとてもかわいい。

かわいいです。好きなものを愛でる姿。

買ってよかったです。かわいいぞ。

 

この絵本のトリビアはこちらから…

福音館書店のブログです。

 

https://www.fukuinkan.co.jp/blog/detail/?id=349

いつかモデルの駅に行きたいなぁ。

 

紹介というよりただの親バカ記事になってしまいました。

子育てを元気にすることば

 

本のプレゼントを頂きました。

嬉しかったあああああああ。


子育てに伴う感情に寄り添う言葉が詰まっています。
子育ては誰でも初心者だよ、与えるばかりじゃなくて受け取っているものもあるよ…著者自身の失敗談も含め様々な書籍の引用とともに背中を押してくれるような一冊でした。

私の偏見かもしれないけれど、育児書って結構子供に寄り添いがちですよね。

もちろん、言語、非言語によるコミュニケーションをこれから学ぶ子どもたちの代弁者は必要なんです

うまく言語化してくれて、子供は、「ああこう言えばよかったんだ」って学べますもん

大人から見ても、子供に寄り添った育児書のほうが見た目がいい。バッチリ言ってくれた…私が子供時代から苦しんできたことを、よく言葉に直してくれた…なんて思いますよね。私がそうだった。

 

 

…でもね、親だって保育者だって、誰かに寄り添って貰えるほうが有り難いし、その存在って育児において貴重です。レアメタルです。アマゾンの奥地にある伝説のカカオみたいなものです。

 

まあ、言うても 育児書なんて目新しいものはないでしょ?と思いますよね。

 

私は、新しく学ぶ言葉がありました。


この本で学んだ言葉が、「アロ マザリング」。
アロとはそれ以外の、マザリングは育児。
母親以外の人が関わる子育てのことを指します。
ミルクとか抱っことか、アタッチメントは必ずしも母じゃなくてOK!
子供にとって深く信頼できる大人という役割は、誰にだって可能な役割だって
子育てしていてより強く思います。
(私がただ親として自信がないというのもありますが(笑)

 

…まぁそうだろうけど、そんなん分かってるけれど人手が足りないよね?!新型コロナで余計に。

 

そうなんですよね…!そうなんです…!

ウィズコロナ、爆裂怒涛に大変です

そんな時にはとりあえず意識を1つだけでもアップデートできれば、

アフターコロナに備えられるかな…と思っています。 

 

理想は子供も親も楽しく

ほんと理想です、今日も朝から遅刻するよって怒ってしまいました

でも、気持ちは、掲げておきます。

本を読むと、落ち着いて内省出来るんですよ、不思議と。

いんげん豆がおしえてくれたこと

 

祖母が亡くなる直前、母に渡した本です。

 

祖母も母も家庭がままならないワーママでした。

祖母は戦前〜戦後にかけて、教員をしながら四人の子供を育てました。

おんぶしながら、おむつからしみ出すものの温度を感じながら働いていたそう。

 

国民学校時代の話は、聞いても答えてくれませんでした。

 

仕事と家庭と、多くのしがらみ、理不尽、不便を飲み込んで過ごしたのだろうと思います。

祖母は子供たちに、とにかく学べ学べと厳しかったそうです。

 

晩年は一人で生きることを選び、穏やかにこの世を離れました。

私が中学生の頃でした。

 

祖母の子たちはそれぞれ個性がとても強く、まるで遊園地のアトラクションです。その一人である私の母。

 

母は常に学んでいないと気が済まない、分かったことはすぐ発信したいタイプ。話の脈絡とは関係なく急に、「ススキは英語でパンパースよ!覚えて!肺がんはラングキャンサー!」って言うタイプ。ビックリするけど、そのせいか不思議と覚えましたね…パンパース…

退職後もバリキャリで全国を飛び回っていました。コロナ禍のために、今は飛び回れていませんが…

学力で悩む私の思いがなかなか分かって貰えずに苦労しました。小さい頃からくもんの宿題が溜まって怒られ続けていました。

 

 

母は、学ぶことで仕事を勝ち取ってきました。仕事に関してはプロなんだなぁ、と話を聞いていて感じます。長い長いマシンガントークにはその業界の楽しさや苦しさを面白おかしくぎゅうぎゅう詰めで話してくれて、それが結構面白い。

しかし家庭的にはかなり無理をしていたと思います。苦しんで病気になりながら、経済的な大黒柱という重圧と子育てに精神を疲弊させながら、分かってほしい人に分かってもらえず生きるのが当たり前でした。

厳しい世界で生きるのが当たり前だったから

トップダウンで私を厳しく仕込まねばならぬ、そう思っていたのでしょう。

 

祖母も、母に厳しく仕込んで来ました

女性の自立、自律を強く意識してのことでしょう。

しかし

祖母の晩年の考えは、変わったのだと思います。

 

本の話に戻ります。

著者はフランス人の方。元教員の方です。転職して自分のライフスタイルを模索し、料理人、エッセイストとしてもお仕事を多く残されています。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3

教員生活はあまりよいものでなかったそう。

多すぎる制約から離れ、仕事も生きる土地も変えて見つかったものの良さを書いている本です。

 

丁寧に暮らしに関わるモノを選び、食べて暮らすことを通して、自分を大事にすることの良さが描かれています。

自分を損なわない生き方を選んでいいんだ、と励ましてくれるような本なのです。

自分を大事にする方法のヒントが書かれてある本です。

まぁ、本の中で紹介されているものはお高いし、

私には到底手に入れられないなぁ、入れない世界だなぁと思いながらも、

 

でも よいものは知識として知っておくだけでも、いつか出会えたら嬉しいなぁという希望になると思うことにしています(笑)

 

自分をケアするのには気力がいる。手間暇が必要だし、不要ならなるべく避けたい。

けれどそれは必要なコストであることを、

私は3人の子育てを通して、より強く感じました。

感じたところでちゃんと出来ているかは怪しいですが!


祖母は、母にそれを伝えたかったのでしょう。

 

 

祖母の生き方は当時マイノリティでした。しかし、自由度が高かった。その良さを知ったうえで、自分の子である母に、もっと自分自身を大事にしてほしいと思ったのでしょう。

 

本が子供でなく、孫に刺さるとは、思いもよらない事だったかもしれません。

 

自分のケアの方法を、親からあまり教えて貰えなかったとしたら。自分で探したり、こういう本で見つけるのもいいなぁ、って思います。

 

それと本筋からは逸れますが、教員という仕事が自己犠牲のうえに成り立つのは今も昔も変わりません。それを変えようとしている方々を心から応援しています。

勿論仕事熱心なのは有り難いこと。

また、余暇を楽しむってことは、とても素晴らしいことです。

未来のだるまちゃんへ

 

未来のだるまちゃんへ (文春文庫)

未来のだるまちゃんへ (文春文庫)

 

かこさとしさん。からすのパンやさん、だるまちゃんシリーズを読んだことがある方、多いかなぁと思います。

 

お亡くなりになった年に川崎で「かこさとしのひみつ展」という美術展がありました。

https://www.kawasaki-museum.jp/exhibition/12037/

これは建物も展示企画も素晴らしい素晴らしい内容でつい書き出してしまったけれどやめておこう、本の紹介がしたい。

その時に買った本です。

 

かこさんは戦時中、敗戦を多感な10代後半に経験しました。

あの時のテンアゲな雰囲気が無かったかのような戦後。

終わった事はもういいじゃんリングフィットで身体鍛えようぜ的な先生。

 

自分の思想や周囲の大人の無責任な発言に呆れ、敗戦後は自分を一旦死んだものとみなしてその後は余生と決めたとの事。

せめて人間らしい余生にしたいと思ったとの事でした。

 

会社勤めと、川崎セツルメントという医療や福祉を提供するボランティア活動を両立させつつ、絵本を書き続けてこられました。

 

時には子供の行動観察。へのへのもへじや、子供に流行っている絵描き歌がどう変化していくのかをメモ魔になって分析しまくり。

作った紙芝居などは子供の反応を見て、盛り上がりに欠けた部分をチェックしていたと。

 

かこさとしさんが描く作品の主体が、子供なんですよね。子供に「ほら面白いから読め」とか、「ありがたい話だから覚えろ」じゃないんです。

いかに子供が楽しむかを狙っているカワイイ方なのです。

子供が寂しい、不安がっていることについて、大人の事情はこうなんだよって絵に描いて伝えている方なのです。

そして、子供が感じる不条理に寄り添う方なのです。

 

大人が、はじめから正しい道を用意して最初からいいことだけやらせていれば全部よくなるというのは思い違いも甚だしい。

 

人間は間違えるものだし、僕も間違えた

と本の中で仰っていて

 

いつも子供と過ごす身としてはとても救われるし、ヒヤリハットもあります。

私から子供への伝える方法について、頭ごなしになってしまったり、時には振り返る余裕すらない時もありますから。

 

先日読んだ別の本には、河合隼雄さんが「子育てをどうやったらいいか僕だって分からない」と仰っていたと書かれていました。

 

偉大な方々の言葉って、困難な状況の中で読むときほど、結構優しいなぁって思います。

 

 

 

まんまるパン

 

まんまるパン (はじめての世界名作えほん)
 

 

ロシアの昔話のようで、リズミカルな繰り返しが続きます。

やんちゃなパンの大冒険です。

 

ロシアはパンを揚げるんですよね。

材料はクリームかあ、なるほど〜

 

娘がとても大好きな絵本です。

絵柄もポップで可愛いのもツボのよう。

 

 

パンぼうや―ロシアのむかしばなし

パンぼうや―ロシアのむかしばなし

 

 

 

おお、これは同じ話。マーシャ・ブラウンさんの作品だ…!

3匹のやぎのがらがらどん、などでもとても有名な方ですね。

言い回しは違うけれどやっぱり繰り返しの楽しさがあります。

ページ数など制約のない、お話の世界を充分に楽しめる絵本となってます。

喜怒哀楽、スリルがハッキリ感じられるのはこちらかなと思います。

しかし絵柄が優しいのはアニメ絵本のほうかな。

まずはアニメ絵本でお話を知って、パンぼうやを読むのもいいかもしれません!

脱会できて、2年くらい経った

ある宗教に、2歳の頃から家族入信していた。母は熱心だった。集会に小さな私を連れていった。父と祖母は宗教に反対だった。

祖母からどこに行っていたのか聞かれ、私は度々嘘をついた。

嘘は見透かされていて、めちゃくちゃ怒られた。邪教だと言われた。

父と祖母は母やその実家を良く言うことはなかった。いつも何かしら疑っていて、母が実家に帰ることをよく思っていなかった。

 

しかし、父と祖母だってお互いに疑っていた。それが分かったのは祖母の遺品整理をした時。日記を見つけた。息子である父へのどうしようもない感情。

それは結局改善されないまま、祖母はあちらに旅立った。

祖父が亡くなった時の日記も見つけた。心の支えだったようだ。

 

話が脱線したけれど、宗教による分断があるお陰で家庭は更に険悪だった。

 

私は小さい頃から入信しているだけで褒められるその環境の居心地がよく、学生時代に活動をとても頑張った。リーダーを何度かした。若者への使命感をくすぐる言葉を沢山貰い、我儘を言いながら、年上の方々に支えてもらい、若さならではの無茶スケジュールをこなした。

携帯には500人くらい電話番号が入っていた。大学、サークル、バイト関係より宗教関係の人たちが多かったように思う。

 

ずっと、心の支えであるにも関わらず、宗教の事を知人や友人に話せなかった。話すときはなぜか涙が出てきて情けなくなった。

 

こんなに自分が大事に思っている思想なのに、世間の人は悪く言うのが分からなかったし、弱小の自分が色々言っても理解されないだけだった。

 

宗教を守るための嘘は許された。踏み絵は踏んでも心に信仰があればよいとアドバイスを受けた。

 

進路は全て宗教が決める事だった。いくつか選択肢を用意して向かった。働けとの事だったので働くことになった。

 

上京して、働きだして、忙しくなって、周囲に信仰を共にする人がいなくなった。

宗教の売店で買ったキーホルダーを隠すようになり、つけなくなった。

毎朝様々な仏様の名前を唱えておはようございますと起きていたのに、しなくなった。

困ったときだけお題目を唱えていたがそれも無くなり

信仰心はいつの間にか無くなった。

 

 

結婚した。

夫は無宗教で、神様みたいな人だった。

自分で人生を選んでいる人だった。

自分の行動や言動にいちいち細かくフィードバックをくれた。

向いてること、向いてないことをよく観察したうえで、あくまで自分の意見は、というスタンスで話してくれた。

めちゃくちゃ喧嘩したけれど、その分お互いの言い分を少しずつ折り合えているように思っている。そう思ってるのは私だけかもしれないけど!

義実家も凄かった。家族の形はそれぞれだし、細かくは言わないけれど、大事にされることとはこういう事なのだ、と教わった。

 

私の中で宗教が完璧に不要になり、脱会した。

おけさをつけずに入る寺は緊張した。

一枚の紙に数字と名前を書いて、あっという間に脱会は完了した。

 

 

 

脱会直後にまだ一歳に満たない息子と入ったおしゃれカフェで、息子は熱いスープをひっくり返し、手を火傷した。

でも対応がうまくいって、息子は跡が全く残っていない。

翌月に娘が家の中で高い所から落ちて頭部を縫う出血。初めて救急車に乗った。

でも娘は元気になり、今日も朝から一つ工作を完成して園に向かった。

その翌月に姉が謎の腹痛で戻し続け、付き添って入院した。

でも姉は2日くらいで退院でき、今日も年々反抗心を強めつつ楽器を弾いて元気に学校へ行った。

翌年には夫が初期のがんだと分かり入院、手術、急変して一時生死をさまよった。

でも今の所治って元気に出社している。凄く忙しいけれど毎晩娘たちとの手紙のやり取りは欠かさない。

 

義実家とはうまく話せた、と思っている。相手はどう思ってるか分からないけれど!

その都度実家にも報告した。

その都度コミュニケーションで辛い思いをした。

宗教をやめたせいだ、はやく戻ってこい、宗教の偉い人からもこれからあなたには不幸が待ち受けていると言われたりとか

がんに効く物質が入ったクリームを大量に送りつけられたりとかした。

 

 

 

実家に家族の事故を報告できない、無事を共に喜べない。回復したと報告したら、親が宗教に祈りを届けたからになってしまう。

 

そりゃぁさ、私なんて実家から見たら何一つ成し遂げたこともない弱い人間。でもさ、だからって手柄が全部宗教に持っていかれるのは嫌だし、小さな小さなことでも、自分頑張ったねって思いたい時はあるんだよ。

 

勿論自身の家族入信の宗教とうまく折り合いをつけて、ずっと信仰している素晴らしい人は沢山見てきたし、これからも出会うんだろうと思う。

 

本当は家族入信を抜けたくて抜けきれない人にピンポイントで伝える手段があればと思う

 

けれど、その手段はないからこのブログに書き散らす。

 

大丈夫ですよ!!抜けても意外と。

起こった不幸は大体他の方法で改善可能だ

思想をアップデートすればなんとか対応可能だ。

勿論個人的に思想や宗教を学んで参考にしてもよいのだ。

また落ち込むことがあるかも!それはその時に対応できればよい。

 

とにかく、恨まれるかもとか見えない力が働いて不幸が続くとか、思わなくて大丈夫

 

その不幸は宗教にいてもいなくても、起こったことだから

 

 

 

 

実家とはその後、育てている野菜の写真を送ってコメントし合う時は冷静に話せる事が分かり、今もそうしている。何かしらでお互い平和に繋がる方法って、あるもんだなあ。

ソーシャルボンドも良し悪し

子供を3人産んで、社会的に弱くなった。

必死で社会に繋がっていたくて、トレンドをSNSで追ったけれど、

社会に出ている夫や、会って話す友人からの情報に敵わない。

うちは割と夫が協力的で、意見を言い合いながら何とか子育てについて方針を共にすることができている。

でも、それでも辛い時はある。

 

子育ては社会の中で誰か他人の目があるほうが、正気を保てる。

家の外に出るだけでもう必死。ひっつめ髪で、昨日と同じ格好で必死で出る。

あっ、子供の顔を拭いてなかったって思って玄関に戻ったら最後、結局外に出られなかったりする。それでも明日は出ようと決心する。わあわあ泣かれて、対応できる日とそうでない日とある。そうでない日は悲惨。

 

講演会や子育てイベントに必死に参加したところで、

家族の生活リズムが少し変わりそれが家族の誰かのストレスになった。諸々整えてチケット買って向かったイベントで子供が落ち着かず、もう今後一切行かねえわって泣いた事もある。

 

繋がるって凄くストレスを感じることが多いものだ。

 

それと。

 

産後強く思ったのは、誰かの優しさを感じ続ける事が、時には自身の無力感を感じ続けることになるということ。

 

無力感の怖さは社会にいる時も強く感じていたけれど、産後の無力感は無人島でひとり耐え続けるのがまたしんどい。ふらっと雑貨屋やスタバに一人で寄れない。常に他人の目が気になる。声をかけられると嬉しい、けれどふと気付くと相手の話のペースに乗せられていつの間にかマルチの話になっていたりする。

 

 

でも

 

私は、何かしらで繋がりたいと強く思っている。子どもたちにも何かしら繋がりを少しでも持ってほしいと思っている。楽しいし、家庭だけでは用意できない新しい出会いのチャンスがそこかしこにあるから。

 

あんまり、繋がりについての負の部分は話したくない。誰かに心配をかけてしまう、良かれと思って助けてくれる人は減る。

 

助けてもらえると嬉しいのに。

それに、助けて貰うって、そこまで辿り着く関係性になれたってことかなあって思ったりしてね。何かしら繋がりがあったほうが安心するしね。

 

自分に問う。その施しは自分が受けたいものなのか。

 

そんな言ってる余裕がある訳じゃない。みんな余裕がない中に助け合ってるよ、とも思う。

 

いやいやでも、受け取りたいものって日によって異なるじゃないか。食べたいメニューが焼肉だったりそうめんだったり、食べたくない時もあるじゃん。

 

 

そうそう、それがやりやすいのがSNSなんだよなぁって思う。

見たくないなら見なきゃいい。でも見てしまって、ふむふむなるほどと思うこともあっていい。言葉を送り、返ってくる。それが可能な限り自分のペースで出来る。

 

それが結構みんな思っていたことで、自分だけじゃなかったんだなぁって分かるだけで救いになったりする。

 

で、施されっぱなしが嫌だなぁと思いながら、私は知らないうちに誰かに何かをあげて、またはあげずに、傷つけてしまったことを知らずにこれからも過ごしてしまうのかもしれない。

 

完全に自分の思ったとおりに、なんて無理だ

 

無理だけれど、でも

できるかぎり、自分を保ちながら社会で過ごしたいし、それがいいという人が少しでも増えてほしいと思っている。

 

そう思えるようになったのは、

 

リアルで出会えた人からの影響です。(笑)