ソーシャルボンドも良し悪し
子供を3人産んで、社会的に弱くなった。
必死で社会に繋がっていたくて、トレンドをSNSで追ったけれど、
社会に出ている夫や、会って話す友人からの情報に敵わない。
うちは割と夫が協力的で、意見を言い合いながら何とか子育てについて方針を共にすることができている。
でも、それでも辛い時はある。
子育ては社会の中で誰か他人の目があるほうが、正気を保てる。
家の外に出るだけでもう必死。ひっつめ髪で、昨日と同じ格好で必死で出る。
あっ、子供の顔を拭いてなかったって思って玄関に戻ったら最後、結局外に出られなかったりする。それでも明日は出ようと決心する。わあわあ泣かれて、対応できる日とそうでない日とある。そうでない日は悲惨。
講演会や子育てイベントに必死に参加したところで、
家族の生活リズムが少し変わりそれが家族の誰かのストレスになった。諸々整えてチケット買って向かったイベントで子供が落ち着かず、もう今後一切行かねえわって泣いた事もある。
繋がるって凄くストレスを感じることが多いものだ。
それと。
産後強く思ったのは、誰かの優しさを感じ続ける事が、時には自身の無力感を感じ続けることになるということ。
無力感の怖さは社会にいる時も強く感じていたけれど、産後の無力感は無人島でひとり耐え続けるのがまたしんどい。ふらっと雑貨屋やスタバに一人で寄れない。常に他人の目が気になる。声をかけられると嬉しい、けれどふと気付くと相手の話のペースに乗せられていつの間にかマルチの話になっていたりする。
でも
私は、何かしらで繋がりたいと強く思っている。子どもたちにも何かしら繋がりを少しでも持ってほしいと思っている。楽しいし、家庭だけでは用意できない新しい出会いのチャンスがそこかしこにあるから。
あんまり、繋がりについての負の部分は話したくない。誰かに心配をかけてしまう、良かれと思って助けてくれる人は減る。
助けてもらえると嬉しいのに。
それに、助けて貰うって、そこまで辿り着く関係性になれたってことかなあって思ったりしてね。何かしら繋がりがあったほうが安心するしね。
自分に問う。その施しは自分が受けたいものなのか。
そんな言ってる余裕がある訳じゃない。みんな余裕がない中に助け合ってるよ、とも思う。
いやいやでも、受け取りたいものって日によって異なるじゃないか。食べたいメニューが焼肉だったりそうめんだったり、食べたくない時もあるじゃん。
そうそう、それがやりやすいのがSNSなんだよなぁって思う。
見たくないなら見なきゃいい。でも見てしまって、ふむふむなるほどと思うこともあっていい。言葉を送り、返ってくる。それが可能な限り自分のペースで出来る。
それが結構みんな思っていたことで、自分だけじゃなかったんだなぁって分かるだけで救いになったりする。
で、施されっぱなしが嫌だなぁと思いながら、私は知らないうちに誰かに何かをあげて、またはあげずに、傷つけてしまったことを知らずにこれからも過ごしてしまうのかもしれない。
完全に自分の思ったとおりに、なんて無理だ
無理だけれど、でも
できるかぎり、自分を保ちながら社会で過ごしたいし、それがいいという人が少しでも増えてほしいと思っている。
そう思えるようになったのは、
リアルで出会えた人からの影響です。(笑)